「人間の本性は無記である」
釈尊は「人間の本性は無記」であるという。「無記」とは、すべての事物の特性は、中庸であるから「善悪いずれにも決めがたい」ということです。それが環境や教育の縁よって善悪の色に染められ分けられるのです。もし「善人」があるならそれは生まれつきのものではなく、縁によって善業が育てられたのです。悪人の場合も逆の意味で同じです。人間は誰しも善悪何れにもなり得る「無記」の因素を持っているのです。したがってその分岐点となる環境や教育、努力の縁が大切なのです。
「人間の本性は無記である」
釈尊は「人間の本性は無記」であるという。「無記」とは、すべての事物の特性は、中庸であるから「善悪いずれにも決めがたい」ということです。それが環境や教育の縁よって善悪の色に染められ分けられるのです。もし「善人」があるならそれは生まれつきのものではなく、縁によって善業が育てられたのです。悪人の場合も逆の意味で同じです。人間は誰しも善悪何れにもなり得る「無記」の因素を持っているのです。したがってその分岐点となる環境や教育、努力の縁が大切なのです。