「修行にも悟りにも境界はない」(道元:弁道話) 「直指の本証なるがゆえなるべし。すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば修にはじめまなし」(坐禅自らが本来の悟りに赴くものである。すでに修行とともにある悟りであるから、修は証、証は修、すなわち修証不二であるから修行にも悟りにも境界はない。すでに悟った上での修行であるから悟りには「初めがない」ように修行にも「初めがない」のである。
「修行にも悟りにも境界はない」(道元:弁道話) 「直指の本証なるがゆえなるべし。すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば修にはじめまなし」(坐禅自らが本来の悟りに赴くものである。すでに修行とともにある悟りであるから、修は証、証は修、すなわち修証不二であるから修行にも悟りにも境界はない。すでに悟った上での修行であるから悟りには「初めがない」ように修行にも「初めがない」のである。