第三順後次受の業」もし人があって、この生において、なんぞ善にもあれ、悪にもあれ、ある業をなしてしまったとすれば、彼はその果を、あるいは第三生、あるいは第四生に、あるいは又そののち百千の生涯の間において感受するであろう。これを順後自受の業という。修行者たるものは、決して邪見をいだいてはならない。また、どういうものが邪見であるか、どういうもの生見であるか、それがはっきりするまでまなびおさめるのがよろしい。(道元:正法眼蔵・三時業)