「邪見とは」因果を否定し、仏法僧をけなし、あるいは三世とか解脱とかいうことを否定する。それらはみな邪見である。今生の我が身にふたつはない。いたずらに邪見に落ちて、むなしく悪行の果を見に受けるなど、惜しいことではないか。みずから悪をいとなみながら、あるいはそれを悪ににあらずと思い、あるいは悪の報いなどあるものかと邪まの考えをおこす。だからといって、やっぱり悪の報いをその見に受けにないわけはないのである。(道元:正法眼蔵・三時業)
「邪見とは」因果を否定し、仏法僧をけなし、あるいは三世とか解脱とかいうことを否定する。それらはみな邪見である。今生の我が身にふたつはない。いたずらに邪見に落ちて、むなしく悪行の果を見に受けるなど、惜しいことではないか。みずから悪をいとなみながら、あるいはそれを悪ににあらずと思い、あるいは悪の報いなどあるものかと邪まの考えをおこす。だからといって、やっぱり悪の報いをその見に受けにないわけはないのである。(道元:正法眼蔵・三時業)