「梅華旧枝に満つ」先師なる天童山の如浄古仏は、法堂にお出ましになって、衆に示して仰せられた。」一言ぴたりと相契(あいかな)いぬれば、もはや万古も移ろうことなし。柳の芽からは新しい条(えだ)がでてくるし、梅の花はふるい枝にいっぱいじゃ。」そのいうところは、長い長い修行も、つまるところは、一言ぴたりと相契うことに帰する。打坐する刹那刹那も、結局、万古移ろうことなきところに落ちる。芽がでて新しい条がしげる。それもまた、新しい条であるけれども、眼睛にほかならない。華と枝がいっしょに来たり、いっしょに生じ、ともどもに満ちるということであり、その故をもって「われに正法あり、迦葉に不属すというのである。そこにいたればいずれも蓮華に満ちいずれも破顔に満ちているのである。(道元:正法眼蔵・梅花)