「見仏ということ」

釈迦牟尼仏大衆に告げて仰せられた。「もし仏にもろもろの相があることと、仏にもろもろの相なきことを見るならば、とりもなおさず如来にまみえるということである。」つまり仏の諸相をみることと、仏の諸相にはあらぬことを見ること、この二つがならびそろうて、それではじめて、すっきりと体得できるというものである。だからそれを如来にまみえるというものだという。この仏見る眼がすでに、ぱっと見開かれたことを見仏とするのである。その仏を見る眼のはたらきが、それがすなわち、仏法を参学する眼にほかならない。自己なる仏をかなたに見るということと、彼方なる仏のほかに自己なる仏を見るということは、それは別々のことことのように思われるけれども同じことを別の光のもとで見ているだけのことである。それらはつまりいろいろな面から、いろいろの身、いろいろの心、いろいろの眼で見ている見仏である。われらが行ずる発心も、修行も、証悟もすべてこの見仏のなかにあって、眼睛をいかし、骨髄をいかして、いるのらほかならない。とするならばこれもあれもすべてが見仏のいとなみだといってよい。(道元:正法眼蔵・見仏)