「釈迦牟尼仏はまた仰せられた」「あらゆる功徳を修めて、柔和にして質直なる人は、かならずみな、わたしが此処にあって法を説いている姿を見ることであろう。」いまあらゆる功徳という。それはもう我が身を忘れて努め、どこまでも努めなければなるまい。だが、それを修しきたって初めて「われもまたかくのごとし、汝もまたかくのごとし」といわれるような柔和にして質直なものとなる。それでこそ、はじめて、泥中にあっても仏にまみえ、波のまにまに漂っていても仏にまみえ、此処にあっても法を説くという仏の説法にもあずかることができるというものである。(道元:正法眼蔵・見仏)