「見仏とは、自己なる仏を見ることでもなく、他己なる仏を見ることではない。ただ仏を見るのである。一枝の梅は、ただ一枝の梅を見るがゆえに、花の開けることあきらかである。見仏とは仏に見られることである。たとえ自分では隠そうと思っても、見仏のほうから漏れてしまう。それは見仏の道理というものである。かって親しく仏にまみえたというのは、礼三拝することであり、合掌しご機嫌をうかがうことであり、ぴたりと蒲団の上に結跏趺坐することである。」(道元:正法眼蔵・見仏)