眼晴とは」すべて参学はとりもなおさず眼晴を乞うことである。僧堂で坐るのも、法堂にのぼるのも、また和尚の部屋に入室するのもすべて眼晴を乞うものである。洞山は、すでに「和尚によって眼晴を得たい」とお願いした。それでも判るように、それがもし自分のものなら、人に乞われてもどうにもならない。もしそれが他人のものならばそれを人に乞うわけのにはゆくまい。眼晴を得たいとと思うところ、それが修行していたる究極のところはといえば、すべて眼晴のなかに跳び込んで、はじめて発心し、修行し、そして大いなる悟りを成就するのである。しかもその眼晴はもともと自己の物ではなく他人のものでもないのであるきから、なんの差し障るところもないから、そのような大事もすらすらと自由自在なのである。