「家常:天童如浄のことば3」半年、瑞巌寺の飯を喫して坐禅 を修していた。仏の智慧、仏の生命を相続することの参究は、坐禅と喫飯の活きの現成そのものである。坐禅にによって断ずるところの迷妄の煙雲は、幾重の層を成していたことは知るべくもない。しかるに突如大悟の霹靂が一声が轟いて、幾重の迷妄が一挙に飛散払拭して、解脱の春光は帝都の杏桃を紅に染む。帝都というのは、赤心片々の無我の解脱心である。この解脱心の活は、他事ではない。畢竟「喫飯である。」喫飯の絶間なく続けてゆくところに無限の仏の威儀が現成して、一切の法に発展現象するのである。(道元:正法眼蔵・家常)