「拈華とは」霊鷲山の百万の衆を前にして、世尊は、優曇華を手にして目を瞬きたもうた。その時、摩訶迦葉が顔をほこらばせてほほえんだ。世尊は仰せられた。我に正法眼蔵、涅槃妙心がある。それをいま摩訶迦葉にあたえる。」と。過去・現代・未来の三世諸仏は、みなこの拈華によって出現するのである。これをもって仏に向かって修行するものは、自己の悟りを実現するものであり、これを以て衆生に向かっては、その冥妄をやぶり、その心をひらくのである。したがって、拈華のなかにあっては、上に向かおうが下に向かおうが、自己に向かおうが他人に向かおうが、あるいは外に向かおうが内に向かおうが、すべて拈華ならざるをえない。華も、仏も、心も、身もすべてが同じである。幾度拈華が行われても、それがことごとく嗣法であり、「これを汝にあたえる」のである。拈華とは、ある時にのみ行われるのではなく、あらゆる時に行われるのである。そこにはいつでも世尊がおられ、行われているのである。いわゆる拈華とは、華が華を拈ずるのである。(道元:正法眼蔵・優曇華)