「弄精魂ということ」優曇華を拈ずることを精魂という。ただひたすらにうち坐って身心を脱落することである。仏となり、祖となることを弄精魂というのである。衣着け飯を喫することをも弄精魂という。先師如浄禅師がもうされた。「霊雲は、桃華の開くを見て悟りを開いたがわたしは桃華の散るのを見て悟りを開いた。」と。桃華の開くのは、春風に愛されてひらくのであり、桃華が散るのは春風に憎まれて散るのである。たとえ春風が深く桃華を憎むとしても実は、桃華の散ることは、春風の愛憎を超越した桃華みずからの、一つに安住しない身心脱落の姿である。これが優曇華のすがたである。(道元:正法眼蔵・優曇華)