「古仏心とは」自己の日常生活である粥を食べる「心」であり、飯を喫する「心」である。さらには、草足り、水足る「心」、一切の吾人の「心」の「はたらき」が古仏心である。このようなありさまの生活の中で坐仏し、作仏するのを発心というのである。(坐仏とは、坐禅、即仏の行である。作仏とは仏になるために坐禅するのではなく、坐禅そのものが仏の「作」即ち「はたらき」である。(道元:正法眼蔵・発無上心)