「信施も発心である」「仏法に帰依する在家の男、在家の女一般の男子が妻子の肉もって三宝を供養し、またおのれ自身を肉をもって三宝を供養するのである。諸々の僧たちはすでにそのような信における布施をうけたのである。どうして修行を怠ることができようか。(三宝を供養するとは、妻子の肉、自身の肉を供養することである。この供養が発菩提心である。出家たる人は、この供養を受けた以上全身心をもって修行しなければならない。)(道元:正法眼蔵・発無上心)