「身の不浄なるを観ずる」とは、いまこの肉親の不浄がそのまま宇宙の真理そのもの、本来の仏身であるとする、即身是仏、自己即仏と正しく観察ことである。淨・不浄に囚われている間はこの不浄観は得られない。観身の方法がすべて差別観、対立観を超越することによってのみ体験し得られるべきであることを知らなければならない。なでなら真理は平等のものでこの体験は日々の生活を続け淨・不浄を超越した絶対境の現成、仏の現成、真理現成なのである。身というときは徹底して身になりきり、観のときは徹底して観になり、不浄のときは徹底して不浄になりきるのが観身不浄である。(道元:正法眼蔵・ 三十七品菩提分法)