「進の神足は精進の神足ともいうがその意味は」、百尺竿頭にまっしぐらに一歩をすすめるのである。では、いったいどこが百尺竿頭だというのであるか。そんなものは、いくらそがしても、どこにも見つかりはしない。いや、まっしぐらに一歩をすすめるということはないわけではない。進むも退くもあったものではない。まさしく精進の神足のなるとき、有りとあらゆる世界も、思うがままに到ることができるというもの、いや、ありとあらゆる世界が向こうからやってくるというものである。(道元:正法眼蔵三十七品菩提分法)
「進の神足は精進の神足ともいうがその意味は」、百尺竿頭にまっしぐらに一歩をすすめるのである。では、いったいどこが百尺竿頭だというのであるか。そんなものは、いくらそがしても、どこにも見つかりはしない。いや、まっしぐらに一歩をすすめるということはないわけではない。進むも退くもあったものではない。まさしく精進の神足のなるとき、有りとあらゆる世界も、思うがままに到ることができるというもの、いや、ありとあらゆる世界が向こうからやってくるというものである。(道元:正法眼蔵三十七品菩提分法)