「思惟の神足とは」仏祖といえども、その営むところの心識のはたらきは茫々としてその限りもなく、それがもともと何に拠っているかその拠りどころもない。身の思惟がある。心の思惟がある。意識の思惟がある。あるいは草鞋の思惟というものがあり。またこの世界が形をなさない以前の自己の思惟というものがある。(道元:正法眼蔵・三十七品菩提分法)