仏道について如浄の言葉「いまあちこちで仏の座にのぼるものもすくなからず、人々の師として振る舞っているのもおおいけれども、よく仏法の道理を心得ているものは全くないわい」と「そもそも釈迦牟尼仏は、広く十方の仏土のもろもろの存在をとりあげて、よってもって十方仏土のあるがままの真相を説かれたのであるが、その時でも、いかなる宗を建てたともいってはいない。従って、つつしんで宗称しないがよく、仏方に五家あるなどと夢にも口にしないほうがよろしい。しきりと宗の称を専らにするのは、それは自分勝手なことを企てるものであって、仏道を怖れぬものである。仏道は決してなんじの仏道ではなく、もろもろの仏祖の仏道である。あるいは仏道の仏道である。仏法を正しく学ぶ道には、宗の称など見聞すべきではない。仏より仏、祖より祖へと付属し正伝するものは、ただ正法眼蔵であり、最高の智慧である。仏祖が所有するものは、すべてそこに付属してきたのであって、そのほかになにも別にあるわけではないのである。そこの道理がとりもなおさず仏法・仏道の骨髄というものである。(道元:正法眼蔵・仏道)

最後に道元は、もう一度如浄禅師の言葉をあげて宗称のあるべからざることを強調し、そしてその結びにおいて、「世尊在世に一毫もたがわざらんとするのが日頃の念願である。」ことを表白している。