「臨済のを批判する。」臨済は黄檗の門下であったが大衆の一人にすぎない。彼は上々の器ではなかった。師に勝ろうとするような覇気はなかった。臨済は、古来いまだ(い)道われざる句は、まだ夢にも語ったことがなく、ただいうなれば多を理解すれば一を忘れ、一に達すれば多が気にかかって仕様がないというところである。四料簡などということには、いささか法味がありとはいうものの、それを仏法を学ぶ指標とするなどとはとんでもないことである。(道元:正法眼蔵・仏経)

 四料簡 しりょうけん

こちらも臨済義玄禅師が提唱したもので、臨機応変に修行者を導くことを示した四種類の指導方法です。

、奪人不奪境だつにんふだつきょう 修行者が自分を見つめることを否定して、現象とか環境に没入させる。
、奪境不奪人だつきょうふだつにん 修行者が現象とか環境に没入することを否定して、自分のみ見つめさせる。
、人境両倶奪にんきょうぐだつ 修行者を徹底的な無の境地に導く。
、人境倶不奪にんきょうぐふだつ 修行者に、すべてありのままに受け止めさせて、何ものにも束縛されない境地に導く。                                       「照用」という言葉で説明をする。 「照」とは相手の内容を見てとる力のはたらきをいう。「用」は相手に仕向けるはたらきをいう。

。雲門の三句   相手の迷いを即座に断ち切る言葉。相手の能力に応じた言葉。日常世界に即した言葉。これらは雲門の三句として後世に語り伝えられています。