「無情説法につついて」「説法於説法する(説法を説法する)は、仏祖付属於仏祖の見成公案なり。」説法を説法するということは、仏祖から仏祖へつたえる定まれる課題である。その説法は法が説くのである。。だから生あるものでもなく、生なきものでもなく、また、人為でもなく自然のものでもない。人為か自然かの関係ではなく、どういう条件によるというものでもない。仏道をゆく人々のためにするのである。だから仏道のことが十分になるとき、説法も十分になるのである。
釈迦牟尼仏は仰せられた。「三世もろもろの仏たちの説法の儀式のように、わたしもそのようにして、いま無分別の法を説く」ということであり、三世の諸仏が説法をなさるように、もろもろの仏もまた説法されるのである。三世の諸仏が説法を正伝なさるように諸々の仏たもまた説法の正伝されるのである。これによって古仏より七仏へと正伝したように、七仏より今にいたるまで正伝して、ここに無情説法がある。正伝にはあらぬ新しいこと学んではならない。(道元:正法眼蔵・無情説法)