「無情説法を聞く眼とは何であるを学ぶことを急務としなければならない。耳は無情説法を解しがたい。が眼は声を聞くことできる。さらにいえば、全身で声を聞くことができるのであり、身体いっぱい声を聞くことができるのである。たとえ眼で声を聞くことを体得できはなくても、せめて「無情なるものの説法は、無情なるものが聞くことうるのである。そこを体得し、そこで身心を一新するのがよいのである。(道元:正法眼蔵・無情説法)