「如是という事」「釈迦牟尼仏はおおせられた。「如是相、如是性」とするならば、花は開き、葉落ちるはとりもなやおさず如是性である。諸法のあるがままの相をはな性れて、法性なるものはない。(道元:正法眼蔵・法性)

万葉集3「舒明天皇」[やすみしし わが大君の 朝(あした)には取り撫で給ひ 夕べにはか いよりより立たたし 御執(みと)らしめ 梓の弓の なか弭(はず)の 音とすなり 朝猟に今立たすらし 夕猟に いま立たすらし 御執(みと)らしめ 梓の弓の 中弭の 音すなり」 

解釈「我が大君が、朝には手に取って愛撫せられ、夕には傍へお立ち寄りになった。その御料の梓弓のなか弭の音がします。朝の猟に今お立ちになるようです。夕の猟に今お立ちになるそうです。御料の梓弓のなか弭のおとがします゜