「面授」代々の祖師がたは、いつも弟子は師にまみえ、師は弟子を見そなわして、じきじき面授してきたのである。一祖としても、一師一弟としても、もしたがいに相まみえて授受しなかったならば、それは仏でもなく祖でもないのである。つまり、釈迦牟尼仏の御おもてを礼拝したてまつり、釈迦牟尼仏の仏眼をわがまなこに写したてまつるのである。だからしてわが眼は、すでに仏の瞳であり、仏の面目にほかならないのである。(道元:正法眼蔵・面授)
万葉集13「香具山は 畝火(うねび)雄々(おお)しと 耳成(し)と あひあらそひき 神代より かくならし いにしえも 然なれこそ うつせみも 妻を あらそふらしき」解釈「香具山は畝火山を雄々しいと云って、耳成山と争った。神代からこのようであるらしい。昔もそのようであればこそ、今のこの世の人も、妻を争うらしい」