薬三弘道大師が坐っているとき、ひとりの僧が尋ねた。「ただ坐っておられていた何を思っておられるのですか〈兀兀地思量什麼」師「思いの及ばないところを思っているのだ思量箇不思量底」僧「思いの及ばないところをどのようにして思うのですか」師「思うのではない(非思量) このように薬山の言葉をよく会得して、ひたすら坐ることを学ぶのがよい。そしてその坐り方を正しく伝えるのがよい。仏道に伝わっている坐り方を究めていくことが肝要である。このような坐り方の工夫はすなわち「思いの及ばないところを思うのである。」(道元:正法眼蔵・坐禅箴)箴とはいましめという意味である詰まり坐禅を行じている者対してのいましめである。

万葉集29「ささなみの 志賀のの唐崎 幸くあれど 大宮人の 船まちかねつ」(ささなみの志賀の唐崎は、昔に変わらずにあるけれど、大宮人の船を再びここに待ちうけることができなくなっている。)

万葉集30「ささなみの 志賀の大わだ よどむとも 昔の人に またも逢はめやも」(ささなみの志賀の大わだは、人待ちがほに淀んでいようとも、昔ここで遊んだ大宮人に再び逢ほうか)