「非思量とは考えないことである。考えないということは、何の濁りもなく、まったく透き通ったものであるが、不思量ということを考えるには、この非思量をもってするのほかはない。非思量にもなんらかの内容がある。その何にかが非思量のわれをあらしめるのである。そのわれはただ思量するわれではなく、ピタリと端坐しているのである。端坐はまさに端坐であるから、その端坐が端坐を思い量ろう道理はない。従って端坐して思うことは、仏のことでもなく、悟りのことでもなく、あるいはなにかの理解のことでもなく、ただ非思量である。(道元:正法眼蔵・坐禅箴)
万葉集「山川も よりて仕ふる 神ながら たぎつ河内に 船出せすかも 」(山も川も相寄ってお仕え申す神様として、激流の川辺に船出をなさることよ)
万葉集「あみの浦に 船乗すらむ おとめらが 玉裳の裾に 潮満つらむか」(あみの浦で、船に乗っているであろう乙女の美しい裳の裾に、潮が寄せているのであろう)