「作仏を図るのでございます」の意」この言葉をはっきりと見定めにければならない。1 作仏すなわち仏となるというのであるが、それはどうなることであるのか。2 仏によって作仏せられるを作仏というのであるのか。3 自分が仏となるのを作仏というのであるか。4 仏にはその能動と受動の両面がむあるのををひっくるめて作仏というのであるか。5 作仏を図るには、その両面を超越するのであるから、超越して作仏するというのであるのか。6 作仏全てを図るという一字を持って表現して「作仏を図る」というのであるのか。馬祖のいうところは、「坐禅は必ず作仏を図るのでのであり、坐禅には必ず作仏の意図があるということである」。その意図は、作仏よりも以前にあるともいえるし、作仏よりも後だということもできるし、まさに作仏なるその時になるのだともいえるのである。(道元:正法眼蔵・坐禅箴)

万葉集35「これやこの 大和にしては わが恋ふる 紀路にありといふ 名に負ふ勢の山(これがまあ 大和にいては いつも風光に私が心をひかれている紀州路 その紀州路にあるという音に聞こえた勢の山なのか)