「塼を磨いて鏡にする」の意「南嶽は塼を磨きはじめた。」馬祖は「和尚は何をなさるのですか。」と問ううと「磨いて鏡にしょうというのじゃ」馬祖は「塼を磨いてどうして鏡とすることができるのでしょうか」とそこで南嶽は「坐禅したからとしてどうして仏となることを得ようか」と。坐禅は、作仏を期待するものではないという道理があり、作仏は坐禅にかかわらないという趣旨があるが、それがここに明らかにうちだされているのである。(道元:正法眼蔵・坐禅箴)
万葉集「見れど飽かぬ 吉野の河の 常滑の絶ゆることなく またかへりみむ」(見ても飽きない吉野の河の常滑のように 絶えることなく またやって来よう」