「もし坐仏を学ぶのならば、仏に定まった姿かたちはない。」そこここの仏が坐仏でましますのは、その定まった姿のない姿を、その姿であらわしているのである。仏には定相がないというのはそれがよく仏の姿を言い得ているのである。定まれる姿のない仏であるがゆえに、坐れる仏の姿もない筈はないのである。だからし、もし坐禅をまなぶばそれはとりも直さず、坐仏をまなぶのだと云うことになる。(道元:正法眼蔵・坐禅箴)
万葉集「潮さいに いらごの島辺 こぐ船に 妹乗るらむか 荒き島回(しまみ)を」解釈「潮のさわぐ中を、いらご島べを漕ぐ船に、あの人は乗っているのであろうか。あの荒い島回を」