「坐仏即殺仏」「坐仏を学びいたれば、仏そのものとなるというのである。坐仏のまさにしかる時は、仏そのものなのである。仏そのものの御姿やその智慧の輝きは、殺仏の功徳がある。換言すれば坐仏のそのときは、それがそのまま殺仏である。元来、坐禅の上では、仏となること、すなわ坐仏の境地は、迷悟を超越した境地で、迷いも悟りも解脱しきった功徳がある。この仏の功徳はすでに殺仏である。(道元:正法眼蔵・坐禅箴)
万葉集「ま草刈る 荒野にはあれど もみち葉の 過ぎにし君が かたみぞと来し」〈解釈)草の茂った荒野ではあるが亡くなられた君の形見としてやって来たことだ。