「行仏威儀の究め」「仏が自己であり、自己が仏であるということは、私はお前てあり、お前は私であるということが明らかとなるのである。仏が仏として現成する。そのところに「吾もまた汝もそなえている」という行仏の威儀が現成するのである。一切諸仏の解脱の境地はそのようなものである。即ち一切の諸仏は、畢竟「自己と一体のものである。一切のものごとは、体験の自己である。巣に和知全ての仏が自己であるということは、唯だ真実の吾を吾がしることである。」(道元:正法眼蔵・)

万葉集「草枕 客去君跡 知麻世波 崖之埴布尓 仁寶播散麻思呼」(くさまくまら たびゆくきみと しらませば きしのはにふに にほはせましら)「いつまでもここにいらっしゃるのではなくて、旅を行く君と知っていましたら、この住吉の岸の黄土(はに)で、君の召物を染めておきませうものを)