「行仏は自由自在であると言う意」「法のためにすることも、身のためにすることも、すべて心のままであり、生をはなれ死をはなれることも、しばらく仏にまかせておくのである。かくてはじめて、万心唯心といい、三界唯心ということができる。さらに一歩をすすめていうなれば、ただ心のみといってもよく、それがいうところの牆壁瓦礰なのである。ただ心のみでないから牆壁亘礰というのではない。それは仏の威儀を行ずる仏のなすところが、心にまかせ、物にまかせながらおのずから物のためとなり、身のためになっていることをいうのである。(道元:正法眼蔵・行仏威儀)
万葉集「倭尓者 鳴而歟来良武 呼兒鳥 象乃中山 呼曾越奈流」(やまとには なきてかくらむ よぶこどり きさのなかやま よびそこえなる)「大和の方には鳴いて行ってることであろうか。ここ吉野では今、呼子鳥が象の中山を呼び聲を立てて、越えていることである。」