「火焔とは」三世のもろもろの仏立ちは、火焔の中に逢って法輪を転ずるというが、その火焔とは、古注によればその時10月1日、開炉の日ににあたっての上堂であったので、その燃えさかる火焔にちなんで、その中こそまさに諸仏の道場であると語ったのであろうという。その火焔裏なる表現はいうまでもなく、欲望の焔の烈々として燃えさかるこの俗世間をゆびさすものと承知せられる。三世との諸仏というのは、すべての仏たちのことである。行ずる仏たちもみな三世の諸仏であり、十方のもろもろの仏たちはいずれも三世の諸仏にあざるはない。ふっきょう尓おいては、三世というのは、すべてを説くことばである。(道元:正法眼蔵・行仏威儀)

万葉集「玉藻苅る 奥弊波不榜 敷妙乃 枕邊之人 忘可祢津藻」(たまもかる おきへはこがじ しきたえの まくらへのひと わすれかねつも)「玉藻を苅る沖邊は漕ぎますまい。しきたへの枕邊ら相見し人を忘れかねていることよ。