「行仏威儀の境地」行仏威儀そのままの境地は、大いなるものでもなく、小さなものでもなく、まことに疑わしいもののようであるがそれこそ超仏越祖(ちょうぶつおつそ)の威儀の現成のときである。諸仏諸祖の説く、「世界を尽くす」の威儀、「大地を尽くす威儀」とともに、いずれも不曾蔵(ふすんぞう)(かって蔵さず)即ち真理そのものの世界であるということを学べきである。しかもそればかりではなく、あらゆる世界は、不曾蔵そのままの相、働きが行仏という無量無辺中のものである。((道元:正法眼蔵・行仏威儀)

万葉集「宇治間山 朝風寒之 旅尓師手 衣應借 妹毛有勿久尓(うじまやま あさかぜさむし たびにして ころもかすべき いももあらなくに(宇治間山の朝風は寒い。旅にあって、衣も貸すべき人もいないのに)