「仏道の六神通」仏道に六神通がある。もろもろの仏はこれを伝えきってすでに久しい。一仏といえどもこれを伝えざるはない。これを伝えねばならないからである。その六神通とは、六根・六境のかかわりにおいてその迹をとどめざることであるという。迹をとどめずということは、古歌をもっていうなれば「六般の神用は空不空、一顆の円光は内外に非ず」である。内外にあらずとは迹はななしということであろう。迹をとどめぬまで修行し、学びいたり、証り入ることができれば、六根が何物に触れようとも、なんの惑乱を受けることもない。つまるところ、仏道の六神通とはかくのごとしと学ぶがよい。仏道の正しい嗣ぎ手でなくては、このような道理があろうとも知ることはできまい。いたずらに外に求めあるいて、自家の宝蔵をひらくことを忘れてはなるまい。(道元:正法眼蔵・神通)

万葉集「天降付 天之芳来山 霞立春尓至婆 松風尓池浪立而 櫻花 木乃晩茂尓 奥邊尓波 鴨妻喚 邊津方尓 味村左和伎 百礒城之 大宮人乃 退出而 遊船尓波 梶棹毛 無而不楽毛 己具人奈四尓」(あもりつくあまのかぐやま かすみたつはるにいたれば まつかぜに いけなみたちて さくらばな このくれしげに おきべには かもつまよばひ べつべに あぢむらさわき ももしきの おおみやびとの まかりでて あそぶふねには かじなきも なくてさびしも こぐひとなし)「天上から降り着いたと伝える海人の香具山は、霞の立つ春になると松風尓池の浪が立って櫻の花が木陰の暗くなる程に茂り咲き池の沖の方には鴨が妻を呼び、岸辺の方では、あぢ鴨がさわぎ、大宮人が退出して来て遊ぶ船には梶棹もなくてさびしいことよ、今はその船を漕ぐ人もなくて」