「機根」人の機根にはさまざまある。たとえば生知の人もいる。それは生まれながらにして生のなんたるかを見透している人である。いうなれば、生の全てをその体で究めているのである。また、学んで知る人もいる。それは学んでのち自己を究めつくすのであって、いうなれば学の真にゆびさすところをその身をもって体得するのである。また、仏知の者もいる。それは生知でもなく、学知でもなく、自分の分際を超えて、どこからどこまでという限界がないから、自知と他知とに関わらないのである。また、無師知というのもある。それは、善知識によるものでもなく、経巻によって得るにもあらず、法性・法相の論によるにもあらず、もしくは、自己を転回するにもあらず、他を採り入れるでもになく、しかも、あるがままにして堂々としてしかるのである。それらの機根はいずれを勝りとなし、いずれを劣れりとなすことはできないのである。(道元:正法眼蔵・大悟)

万葉集「刑部垂麻呂」(馬莫疾 打莫行 気並而見弖毛和我帰 志賀尓安良七久尓國)(うまないたく うちてなゆきそ けならべて みてもわんがゆまく しがにあらなくに)「馬をひどく鞭打って、いそいでは行くな。日数かさねて見てゆく志賀の地ではないものを」