「大悟を拈来してさらに大悟する」生知があれば、また、生まれながらの悟りもあろう、生まれながの証得もあり、生まれながらの修行もあろうというものである。だから、すでに人を導く師となりたもうた仏祖をよんで生知と称する。その生が悟りを把握した生であるからであり、その人に生知がなければ、とてもここには到らぬからである、今日までの学修が、よく悟りを把握せしめるものであったからである。生知があれば、その人はさらにいろいろと参学・修行して大悟するのである。(道元:正法眼蔵・大悟)
万葉集「柿本人朝麻呂作」物乃部能 八十氏河乃 阿白木尓 不知代経浪乃 去邊白不母」(もののふの やそうじがわの あじろきに いざようなみの ゆくえしらず)「宇治川の網代木にかかってしばし流れきれずにいる波のやがてゆくえも知らずってゆくことよ」