「悟らぬ者の悟る者をどちらも得難い。」臨済院の慧照大師は「大唐國のなかに、一人の悟らざる者を探し求めても、得ることは難しいであろう」という。しかしこれだけでは究極とはするこはできない。いまだ悟らざる者の得難いことのみを知って、すでに悟れる者もまた得難いことを知らなかったならば、なおなおいまだよしとするにたりない。得難いであろうか、得難くないであろうか。それが判る眼目をそなえた時、はじめて本当のできた仏祖だとすることができる。(道元:正法眼蔵・大悟)

万葉集「長忌寸奥麻呂」」「苦毛 零来雨可 神之埼 狭野乃渡尓 家裳不有國」(くるしくも ふりくるあめか みわのさき さののわたりに いえもあらなくに)「苦しくも降って来る雨ょ。三輪の埼の佐野の渡しには家もないものを」