「破鏡は重ねて照らさず。落花は枝にのぼりがたい」の真意。大悟とは、始めもなく、また終わりもないものであり、迷いもまたしかるのである。従って、大悟と差しさわるるような迷いなどはないのであって、むしろ大悟三枚をひねくり廻して小迷半枚をつくるといったところ。つまり雪山は雪山のために大悟するのであり、木は木のために大悟するのであり、また、諸仏は衆生のために大悟するのであり、衆生は諸仏の大悟を大悟するのであり、しかも、前後の関係はまったく無い。だから、いまの大悟は、自分のものでも、他人(ひと)のものでもない。どこから来るというものではないが道は坦々として通じている。また、どこに去るというものでもないから、他にしたがって探し求めてはいけない。どうしてどうかというなれば、それはどこかに行ってしまうからである。(道元:正法眼蔵・大悟)