仏向上事とはいかなることか。その1・洞山良价は、あるとき、衆に示していった。「仏を超えるという事を体得して、いまいささか話したいことがある」すると一人の僧が問うていった「それはどんなお話でしょうか」洞山はいった「話している時には、そなたたちには判らない」僧はいった「では、和尚にはお判りでございますか」洞山はいった。「わたしんが話していないときをみていると判るだろう」いまいうところの「仏を超えるということ」という表現は、洞山が初めていったことばである。そのほかの仏祖は、洞山の表現を学び来たって、仏を超えるということを体得したのである。つまり、仏を超えるというのは、なお修行中のことでもなく、また、仏位いたってからのことでもない。ただそのことが語られているときにはまだ判らないがそれを体得するときにそのことが判るのである。だがそれをいかにして体得するかといえば、語られることなしにそれを体得する事はできない。ただその語られたことが、「ああ、これか」と判ってきた時、それが仏を超えるということなのである。(道元:正法眼蔵・仏向上事)