恁麼の人「発心するものがある。その心がおこってからは、その人は、これまで弄んでいたことは全て投げ捨てて、ひたすら、いまだ聞かざるところを聞かんと願い、いまだ証らざるところを証らんことをもとめはじめる。それは決して自己のなすところではあるまい。それは恁麼の人であるがゆえに,かくなるものと知られるのである。それでは名でそれが恁麼の人であるというのであるか。それほかでもない。恁麼の事を得たいと思っているから、恁麼とひとであるというのである。そして、すでに恁麼の人として面目をそなえているからには、もはや恁麼の事を思い煩うの要はないといういうのである。たとい憂い悩んだからといってそれは恁麼の事であるからけっして憂うることはないのである。また、恁麼の事はどうしてそうなのであるかと、驚き怪しむこともあるまい。たとい驚いても怪しんでもそれはやっばりそうなのである。あるがままにあるものを驚いたり怪しんだりしてはならないのである。(道元:正法眼蔵・恁麼)