「行持とは」「仏祖の大道、かならず無上の行持あり、道環して断絶せず、発心・修行・菩提・涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり」つまり、仏祖の大道は、必ず最高の行なるものがあるということであり、その行は常に連綿として断絶することがなきものであらねばならぬものであるから、これを持というのである。持にあらずしてはまことの行ではないないのである。その行持が、これからあれへと巡り連なって持続するとき、その時、はじめて、発心・修行・菩提・涅槃と、いささかの間隙もなき全仏教がなるといえのである。(道元:正法眼蔵・行持)