「行持の功徳」その行持の結果は、時におよんでは、あらわれて発心となり、修行となる。また、時におよんでは、まったく現れる事もなく、なんの見聞も覚知もない。だが、急に現れることはなくても、やがては現れることもあろうと思っておればよい。行持の結果が現れるか否かなどということは、もともと行持には関係ないこと。それはもっと純粋なものである。それはもともと自己を形成するための行持であって、それがいまいうように隠れるの顕れるというのは、いったいどういう条件があってのことか解らないのも当たりまえのこと。行持には特別に新しいこともないからなのである。修行はつねに継続してしばらくといえども行持を懈つてはならない(道元:正法眼蔵・行持)