行持を形成する修行は、いまわれらがいとなむ修行である。そのいまもいとなむ行持は、自分がもとより有するものでもなく、もともとわが内にあるというようなものでもない。「いま」というからにはこの行持より以前からあるわけではなく、まさにこの行持の実現するのを「いま」というのである。さまり、その日その日の行持がつもりつもって、それがもろもろの仏の種子となり、それがもろもろの仏の行持となる。(道元:正法眼蔵・行持)