「脇尊者(きょうそんじゃ)の行持」第十祖の婆栗湿縛尊者(訳して脇尊者)は一生その脇を坐二付けなかった。八十の老年にいたってからの勉強であったけれども、それはたちまちにして大法を悟ることを得た。それは光陰をおろそかにしなかったからである。僅か三カ年の修行であったけれどもまさしく正伝のまなこを伝え得たのである。今の人は、五十歳・六十歳及び七十歳八十歳の高齢におよんだからもうこの辺で仏法の勉強をやめておこうなどという。今日まで生きてたとえ幾歳におよんだといっても、それはかりそめの人間の計算にすぎないもので、仏法の学問にははなんの関係もない。壮年だ老年だなどと考える要はないのである。ただ仏道を学び究める志をもっぱらにするのがよい。眼晴をつくるがごとく正観すべし。(道元:正法眼蔵・行持)