「仏祖の面目・骨髄とは」「もし行持のちからがいまだ到らずして、仏祖の骨髄を受けることができないのは、なお仏祖たるべき身心を尊重せず、仏祖の面目を受けることを喜ばないからである。いったい仏其の面目いい骨髄というものは、去るものでもなく、来るものでもないけれども、必ず一日の行持によって受けるものである。したがって、その一日こそは、まことに重いかるべきものである。しかるを、ただいたずらに百歳を生きるなどとは、まったく悲しむべき日月であり、また、うらむべき人間の形骸というものである。一日でもみごと行持を成就するならば、その一生の百歳を成就するのみではない。また、百歳の他生をも救うことができる。(道元:正法眼蔵・行持)