「南嶽懐奘の行持」「南嶽懐奘は、六祖慧能のもとに随時すること15年に及んだ。その師資の道をつたえ業を受くることはまさに「一器の水を一器に瀉(うつ)す」がごとくなることをえた。行持というものは、だいたい、ひそかに、名をむさぼり、利を愛する心をなげすててやっていけば、日々おのずからにして功がつもるばかりである。その趣きを忘れてはならない。「物をもって説示すれば、すなわち中(あた)らざるなり」と賢なるも賢ならぬも、ともに請(こ)いねがうべき行持というものである。(道元:正法眼蔵・行持)
「南嶽懐奘の行持」「南嶽懐奘は、六祖慧能のもとに随時すること15年に及んだ。その師資の道をつたえ業を受くることはまさに「一器の水を一器に瀉(うつ)す」がごとくなることをえた。行持というものは、だいたい、ひそかに、名をむさぼり、利を愛する心をなげすててやっていけば、日々おのずからにして功がつもるばかりである。その趣きを忘れてはならない。「物をもって説示すれば、すなわち中(あた)らざるなり」と賢なるも賢ならぬも、ともに請(こ)いねがうべき行持というものである。(道元:正法眼蔵・行持)