「雪峰義存の行持」「真覚義存和尚は、かって発心してよりこのかた、どんな禅院であろうと、どんなに遠くちも、どんな接待をうけようとも、処をきらわず訪れては、日夜の坐禅をおこたることなかった。ついに雪峰に草庵を創めて、堂々とわが真骨頂を打ち出すにいたるまで、いささかも怠るところなく、坐禅とともに生き、ともに死んだといって然るべきである。(道元:正法眼蔵・行持)
「雪峰義存の行持」「真覚義存和尚は、かって発心してよりこのかた、どんな禅院であろうと、どんなに遠くちも、どんな接待をうけようとも、処をきらわず訪れては、日夜の坐禅をおこたることなかった。ついに雪峰に草庵を創めて、堂々とわが真骨頂を打ち出すにいたるまで、いささかも怠るところなく、坐禅とともに生き、ともに死んだといって然るべきである。(道元:正法眼蔵・行持)