「いまわれらは正法に遇うことができた。されば百千無数の身命を捨てても正法にいたり学べきである。正法にあいながら、身命を捨てなかったならそれは恥ずかしいことである。そして祖師の大いなる恩に報いようとならば、なによりもまず一日の行持を営むことである。自己の身をかえりみてはならない。鳥けものよりもつまらぬ恩愛をおしんで捨てかねてはならない。たとい惜しんでも、いつまでも続くものではない。あるいは、とるにたりぬ家門などをたのみとしてはならない。たとい頼みとしても最後のよりどころとはならない。昔の仏祖は賢こかったので財宝も同胞もふりすて、王殿も楼閣もなんの執するところもなく捨て去った。いまわたしどもが仏にまみえ法を聞くみとができるのは、仏祖が面授面受しきたれる行持によるものである。もし仏祖が一人から一人へと直々に伝えることがなかったならば仏の正法はどうして今日にいたることができたであろうか。(道元:正法眼蔵・行持(下))