「報謝の行持-2-」世の中の心ある人々は金銀や珍宝のめぐみを蒙ってもなおかならず報謝する。うれしい言葉をかけてくれたよしみにすら、心あるものはみな報謝の思いにはげむ。ましてや、如来の説きたまえる最高の教法を見聞することのできる大恩は、人間たるものの誰が忘れてよかろうぞ。これをわすれなければそれが一生の宝である。それもまた行持である。そしてその行を持して退転することのない人のむくろは、その生ける時と死せる時をとわずおなじく七宝の塔におさめ、全ての人々が供養するに値するのである。そのような大恩があると知ったならば、かならずや、この果敢(はか)ない命をもいたずらに零落せしめずかの山のような徳をも報ずるがよい。それがそのまま行持である。そしてそ行持のわざを通じてそこに祖・仏として行ずるわたしが実現するのである。(道元:正法眼蔵・行持)
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