芙蓉道楷の出家観「あるとき衆に示して次のように説いた「いったい出家というものは、世俗の苦労をいとい、正師の不安を脱しようがために、心をやすめ、いろいろの思いをとどめ、さまざまのうるさい縁を断ちきってしまうから出家というのである。それでいてどうしてつまらぬ利養のことで日々を埋めてしまうようなことでよかろうぞ。ただちに右も左もむ振り捨ててしまい、その中間も投げ捨ててしまうのがよろしい。見るも、聞くものはすべて石のうえに植えられた花のようなものだとおもうがよろしい。(道元:正法眼蔵・行持下)
芙蓉道楷の出家観「あるとき衆に示して次のように説いた「いったい出家というものは、世俗の苦労をいとい、正師の不安を脱しようがために、心をやすめ、いろいろの思いをとどめ、さまざまのうるさい縁を断ちきってしまうから出家というのである。それでいてどうしてつまらぬ利養のことで日々を埋めてしまうようなことでよかろうぞ。ただちに右も左もむ振り捨ててしまい、その中間も投げ捨ててしまうのがよろしい。見るも、聞くものはすべて石のうえに植えられた花のようなものだとおもうがよろしい。(道元:正法眼蔵・行持下)